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令和3年8月号<8月10日配信>

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サプライ通信

岡社長の今月のアドバイス

《大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉘》

第28回は、小沢治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)です。日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めました。(写真①②③④)

小沢治三郎中将は、昭和17年10月26日に行われた南太平洋海戦以後、負け続けた帝国海軍の中で、極めて優秀な指揮官であったにもかかわらず、戦機に恵まれなかった不運の将軍でした。昭和19年に行われたマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦の指揮官であり、最後の連合艦隊司令長官としても知られています。米軍の評価は極めて高く、連合軍が恐れた日本の五人の提督(小沢治三郎、山本五十六、吉川潔(R3年2月号)、山口多聞(R1年10月号)、草鹿龍之介)の一人です。

小沢治三郎中将は明治19年、宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の家に生まれました。少年時代から柔道で鍛えており、因縁をつけてきた不良を、橋の上から投げ飛ばしたとか、喧嘩で日本刀を振り回したといった逸話が伝わっています。

明治42年(1909)、海軍兵学校卒業。第一次世界大戦時には、第二特務艦隊の駆逐艦乗組となり、地中海に派遣されました。帝国海軍の提督の中で、この欧州派遣は貴重な戦闘体験となりました。海軍大学校で戦術家の教官を務めた際には、生徒たちに「独創的な戦法を研究せよ」と説きました。

また、日本の国益を考え、セクショナリズムに陥りがちな陸軍と海軍が不仲であったことに苦言を呈し、双方が交流することの大切さを常に説いていました。不仲をむしろ煽っていた将官が多い中、その視野の広さは海軍内でも随一でした。

その後、大東亜戦争開戦直前まで第一航空戦隊司令官を務め、航空兵力を集中させた航空艦隊の編成を提唱、このため「空母機動部隊の生みの親」ともいわれています。この思想と実績が後の真珠湾攻撃に繋がります。



 

 

 

 

 

 

 

 



開戦時はマレー部隊指揮官兼南遣艦隊司令長官。マレー作戦の成功に大きな功績を挙げ、陸軍の山下奉文大将(R2年4月号)の信頼を得た小沢中将は、評価が高まり、依然不仲であった陸軍とのパイプ役を期待されることとなりました。陸軍の今村均司令官(R1年9月号)が行なったジャワ上陸作戦にも、強力な支援を送って成功させたため、陸軍からさらに篤い信望を得ました。

しかし、小沢治三郎中将の不運は、機動部隊を用いた航空戦術の先覚者でありながら、海軍人事の序列制のため、第一航空戦隊司令のポジションを、南雲忠一中将に譲り渡さざるを得なくなったことです。真珠湾攻撃にも、ミッドウェー海戦にも、1~3次のソロモン海戦にも参加することなく、ようやく敗戦続きの南雲中将の後任として、機動部隊である第三艦隊の司令長官に就任した時には、既に開戦以来の熟練搭乗員の多くは失われており、日米の科学技術と物量の差は歴然と開いた状態でした。

昭和19年(1944)6月、小沢中将は第一機動艦隊司令長官として、最新鋭の空母・大鳳に座乗して、マリアナ沖海戦(写真⑤)に臨みます。この戦いが大東亜戦争における天王山でしたが、日本軍の空母部隊の搭乗員の多くが練度不十分のうえ、燃料不足のため、着艦訓練を殆ど実施できず、発艦は出来ても着艦は出来ない搭乗員がいる状態でした。それに対し、米軍はおよそ二倍の兵力で、高速空母部隊を擁していました。この時、小沢中将がとった戦法が「アウト・レンジ戦法」です。敵の航空機の航続距離の外から、航続距離の長い日本軍機の特性を活かして一方的に攻撃をかけるというものでした。確かに極めて合理的な戦法でしたが、着艦もろくに出来ない練度不足の攻撃隊では、その実行には無理がありました。

民主主義を標榜する米国では、国民が戦死することを極端に嫌いました。その米軍が敵の攻撃を無力化するために開発した兵器の中で、最も優れた兵器と私が評価するのが、マリアナ沖海戦で初めて登場したVT信管(別名:マジック・ヒューズ)と八木アンテナを活用したレーダー(電探)です。前者は対空砲火の弾頭にVT(近接)信管 (写真⑥)を組み込み、砲弾が航空機のエンジン音を感知して爆発するものです。後者は遠方からでも初弾(最初に打った弾)を命中させるほどの高性能な兵器でした。

この新兵器VT信管と最新のレーダー網で行動を把握され、高性能艦載機によって完全に守られた米艦隊に、接近することも極めて困難となり、日本軍攻撃隊は378機を一方的に撃墜され、不名誉にも、「マリアナの七面鳥撃ち」などと嘲笑されることになりました。このマリアナ沖海戦で日本軍は空母大鳳、翔鶴、飛鷹を失い、惨敗を喫し、各地よりかき集めたベテラン搭乗員の大半を失いました。因みに米軍はこの新兵器のことを徹底的に秘密にしましたので、戦争終結まで帝国海軍の上層部が詳細を把握することはありませんでした。

この敗戦で、小沢中将は責任をとって辞表を提出しますが、同年10月のレイテ沖海戦(写真⑦の4つの海戦の総称)で、より苛酷な任務を命じられます。囮(おとり)部隊の指揮官でした。フィリピンに上陸する米軍に対し、小沢中将率いる残存空母部隊が囮となって、猛将ハルゼー提督率いる米機動部隊を北方に吊り上げ、その間に戦艦大和、武蔵を中核とする栗田健男中将指揮の第二艦隊が、レイテ湾の米軍泊地に突入し輸送船を片っ端から撃沈するというものです。この作戦が成功すれば、マッカーサー率いる米上陸部隊を殲滅することが出来、多くの米将兵を失った米政府が、戦争継続を躊躇する可能性も大いにありました。

小沢中将は指揮官として、彼我の兵力差を考慮し、乾坤一擲のこの作戦に全力を尽くし、日本の主力部隊と勘違いしたハルゼー提督の米機動部隊を完全に引き付けました。そして小沢中将は、麾下の空母をすべて失いながらも栗田艦隊にレイテ突入のチャンスをもたらしました。しかし、栗田艦隊はレイテを目前にして「謎の反転」を行ない、小沢中将たち空母部隊の努力は水泡に帰すのです。(小沢艦隊が作戦に成功したという報告が届かなかったためといわれています。)


<日米戦果の誤差>

①マリアナ沖海戦(1944年6月)⇒日本側戦果報告:撃沈空母5隻・戦艦1隻以上撃沈 破・航空機100機以上撃墜

米軍発表 ⇒ 沈没無し/小破・空母2隻・戦艦2隻/航空機喪失130機

日本側損害:沈没・空母3隻、小中破・空母4隻・戦艦1隻・重巡洋艦1隻・航空機喪失476機

②台湾沖航空戦(1944年10月)・日本側戦果報告:撃沈・敵空母11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻撃沈/撃破・空母8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻/航空機113機撃墜

米軍発表 ⇒ 沈没無し/大破・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦1隻/小破・航空母艦1隻/航空機89機喪失

日本側損害:航空機651機

③レイテ沖海戦(1944年10月)・日本側戦果報告:撃沈・空母8隻・巡洋艦4隻・駆逐艦12隻・輸送船5隻以上/撃破・空母7隻・戦艦1隻・巡洋艦2隻・駆逐艦1隻・輸送船46隻/航空機撃墜約500機

米軍発表 ⇒ 沈没・空母3隻(特攻機による体当たり)・駆逐艦3隻のみ/航空機喪失約70機

日本側損害:沈没・空母4隻・戦艦3隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦4隻・駆逐艦9隻・ 航空機数百機/その他被害甚大


上記の報告の誤差、戦果把握の誤差を日本海軍上層部は戦後まで知らなかったようです。現実の戦果報告を含め、当時の日本海軍は、組織としての体を成していなかったとしか評価できない失態です。

アジア全域では陸軍が奮闘しており、上記の虚偽に近い報告によって、日本軍は劣勢ではあるが、戦局はまだまだ何とかなるとの認識でしたが、特に上記のレイテ沖海戦での海軍の一方的な大敗で、戦争継続は最早不可能な状態でした。上記①~③の戦いで敵航空母艦を20隻以上撃沈しているとの誤った認識が、戦争継続に結び付き、結果的に113都市をB29の爆撃で燃やされ、広島に原子爆弾を落とされ、562,708名の死者と234万戸の家屋が焼失、戦後一方的にGHQに支配され、日本人としての伝統と精神性を破壊され、嘘の歴史を世界中にばら撒かれてしまったことは、返す返す残念です。レイテ沖海戦の現実を把握していれば、一刻も早く戦争終結にもっていけたはずでしたが、アジア地区で奮闘する陸軍の手前、真実を公表することが出来なかったのではと勘繰りたくなります。

昭和20年(1945)5月、小沢中将は大将昇進を拒み、中将のまま連合艦隊司令長官に就任しました。しかし、連合艦隊の艦艇はもはやほとんど残っておらず、終戦時の混乱の回避のみが主な功績というべきものとなりました。  

終戦の際に、小沢中将は海軍将兵たちに対して「自決」を禁止しました。第3航空艦隊司令官の寺岡謹平中将にも、「君、死んじゃいけないよ。みんなが死んだら誰が戦争の後始末をするんだ」と声をかけ、少しでも多くの命を救おうとしました。  

戦後は、東京の世田谷に住み、「自分は死に損なった男だ」と生き永らえたことを恥じて、インタビューや取材を一切断り、「沈黙の提督」として過ごします。

生活はけっしてラクなものではなく、養鶏をしたり自宅の部屋を人に貸したりして生計を立てていたようです。小沢元中将は、多数の部下を自分の指揮で失ったことへの自責の念は強烈であったようです。たまたま近所に陸軍の今村均元大将の住まいがあり(今村氏もまた自責の念から、庭に建てた狭い小屋で生活をしていました)、今村氏をよく訪ねていたようです。元部下の面倒見の良かった今村氏のもとに若い自衛官が話しを聞きに来ると、今村氏は必ず、帰りに小沢元中将のもとにも寄りなさいと言っていたそうです。小沢氏と今村氏はたまに喧嘩することもあったようですが、ジャワ上陸作戦以来の生涯の戦友だったそうです。

小沢元中将は、戦績だけ見ると敗戦続きで、決して有能な将のようには見えません。しかし、アメリカ軍太平洋艦隊司令官だったチェスター・ニミッツ大将は、「小沢提督は敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」と称しています。 昭和41年(1966)11月9日没。享年80歳。その葬儀に際して、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン氏は、花束とともに「偉大なる戦略家で船乗りだった小沢提督の死を心より悼む。近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージを贈りました。

秘湯の旅①<真夏のバイクツーリング編>

今年の夏は、“暑い、とにかく暑い”夏でした。

そんな暑い夏の連休(7月23~24日)に、涼を求めて山奥の秘湯へ、バイクツーリングに行ってきました!

連れ合いは例によって、高校・大学の同期の『ミスターK氏』です。まめな彼が探してきた場所は、「日本秘湯を守る会」登録の<奧白布・吾妻屋旅館>という山形県米沢市の山中にある秘湯中の秘湯でした。(標高1126mの場所にあるそうで“いいふろ”だそうです。)

山形県米沢市大字関湯の入沢行きの集合時間は10時、東北道の羽生SAです。既に33℃超の真夏日で、大汗かきの私にとっては地獄の気温で、暗いうちに出発したかったです。距離が中途半端な330km(写真①)なので、到着後すぐの入浴を目指す我々にとっては、集合時間で調整するしかありません。

途中黒磯板室ICで高速を降り、お客様の「那須○○」様の事務所前を通過して、昼食。その後一般道で、猪苗代湖経由で山道に入ります。猪苗代湖の湖水はきれいな透明で、冷たそうでした。時間があれば湖水浴をしたかったです。

道中常に雄大な磐梯山が視界にあり、ツーリングの醍醐味を満喫しました。そこからは酷道を抜け五色沼を超えて檜原湖畔の道を快適に通過しました。記憶が少し曖昧なのですが、確か高2の修学旅行が会津方面で、五色沼周辺と磐梯山の登山をした覚えがあります。寒い時期(10月?)で、当時体力には相当自信がありましたが、結構辛かった記憶がよみがえってきました。それが、バイクではスイスイ進んでいけます。有難いですね、バイク。あとでK氏に聞きましたが、彼は全く覚えておりませんでした。40年以上前の記憶など、そんなものですね。

入浴に丁度良いころ合いに、宿に到着できそうということで、ネットワーク状況の悪いK氏に前を走らせていたのですが、彼は暢気に宿まであと1.7km地点の右折箇所(写真②)をスルーして走り去ってしまいました。 私のバイクは1833cc・車重383kg、荷物満載では400kgを超えており、坂道の右折からのUターンは危険です。K氏はBcom(無線通信機)も持っていませんので、通信手段がありません。

追いかけて引き返させるしかありません。山道を必死で追いかけ、背後からクラクションを100回以上鳴らしましたが、K氏は気づきません。結局15kmほど追いかけ、最後は追い越して停止させました。  

岡)「道間違ってるやろ!、クラクション気づかんかったんか!」

K氏)「あ、ホンマや、すまん・すまん、気づかんかったわ!、後ろで何してんねんやろ?と思ってた!」 とのこと(涙)。  

最近のK氏とのツーリングでは、大したハプニングもなかったので油断しておりました。彼とツーリングに行くと何かトラブルが起きるのですが、この程度で良かったと思いました!

右折箇所から1.7kmは正に秘湯への道で、道路は砂利道、傾斜は25度~30度。止まったら大惨事です。タイヤは微妙に滑ります。運転でこれほど緊張したことはかつてありませんでした。そしてようやく宿の下の駐車場(未舗装:写真③)にたどり着くと、宿の方が木の板を持ってきてくれました。それをスタンドの下に敷き、安定を確保。吾妻屋旅館(写真④)に到着し、漸く安堵の息をつきました。

チェックイン後すぐに5つある風呂の内、家族風呂を除いた4つの風呂に突撃です。先ずは一番の名物の源流滝見風呂(写真⑤⑥)です。ここは少し熱めの湯ですが、滝の音を聞きながらゆったりと入浴ができ、疲れも吹き飛びました。

吾妻屋旅館の滝見風呂だけでも満足でしたが、温泉マニアのK氏は次の風呂を目指します。これも初めての経験でしたが、大木を横に切って中をくり抜いた風呂(写真⑦)と木の幹をくり抜いた風呂(写真⑧)も雄大な景色を見ながらということで、風情がありました。

更に屋根のついた大露天風呂があり、本当はゆっくり女性の方と写真⑨のように入りたかったのですが(笑)、現実(写真⑩:同級生の間では不評です。)はこんな感じでした(悲)。更に内風呂(写真⑪)でゆっくりと汗を流して体を洗い、窓から見る夕日(写真⑫)をしばし眺めての夕食タイム(写真⑬)となりました。

事前に部屋で缶酎ハイを一本空けてから、夕食時に中瓶2本飲み、岩魚と米沢牛を堪能し、いざオリンピックの開会式。。。となるはずでしたが、とにかく長い‼

選手入場までが長すぎる! ということでテレビをつけっぱなしで寝てしまいました。 大坂なおみちゃんと長嶋名誉監督登場のところで少し目が覚めたくらいでほぼ爆睡状態でした。

翌日は再度全ての風呂を制覇した後、奥会津の「大内宿」を訪れました。

福島県南会津【大内宿(写真⑭⑮)】は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えました。ここではソフトクリームを食べ、その後、道の駅・湯西川で鰻を食べ、くそ暑い東京へ向かいました。

最後の休憩地は羽生SA上り(写真⑯)です。ここには私の大好物のかき氷があります。 船橋屋の宇治金時(写真⑰:通販でもゲットできます!)を食し、体を冷やして「いざ帰還」となるところでしたが、帰宅途中の国道122号で、渋滞でトロトロ運転中に、無法原付バイクが後方からすり抜けてきて、私と衝突しかけました。咄嗟に急ブレーキをかけて衝突は回避できましたが、車重約400キロのバイクの急停車は危険です。お陰で立ちゴケとなり、一人で起こせません。

私に謝ってきた原付バイクのお兄ちゃんに手伝わせて、二人がかりで何とか引き起こし、お兄ちゃんをリリース、夕方5時30分に、無事帰宅となりました。 暑い中でのツーリングは、集中力を失いがちですが、無事帰ることが出来て良かったです。9月~11月はバイクの季節です。

コケておいて何ですが、何方か、ご一緒にツーリングしませんか‼

本年10月から最低賃金が大幅に引き上げられることになりました。しかしながら、コロナ禍の影響がある中で、厚生労働省は中小企業が最低賃金を引き上げることによる負担の軽減に活用できる助成金を提供しています。また、来年も引き続き引き上げられることの可能性も高く、このため先行して賃金を引き上げることで助成金を活用することができます。今回はこのような助成金をご紹介します。  


1.雇用調整助成金(新型コロナ特例

過去に受給され、または現在も受給されている企業も多いと存じますが、この助成金は、直近1か月の売上高等が、前年または前々年の同月と比べて5%以上減少している企業が、従業員を休業させて休業手当を支払うこととなった場合に、その休業手当等の一部を助成するものです。

助成額の上限は、原則的には1日一人あたり13,500円ですが、売上高等が最近3か月の月平均で前年または前々年同期比30%以上減少している企業(業況特例)等は、1日一人あたり15,000円となっています。  

【最低賃金を引き上げた中小企業の要件緩和】

現在のコロナ特例では、休業規模要件として、中小企業では休業等の延日数が事業所の全従業員の所定労働延日数の1/40以上が必要であり、これ未満の休業では受給対象となりませんが、以下の2つの条件を満たす場合は、休業規模要件は適用されないことになりました。

①令和3年10月から3か月間の休業について、業況特例または緊急事態措置等の対象地域で、都道府県知事による要請を受けて営業時間の短縮等に協力する企業(地域特例)であること。

②事業場内最低賃金(その事業場で雇入れ3か月を経過した労働者の事業場内で最も低い時間当たりの賃金)を、令和3年7月16日以降、本年12月までの間に30円以上引き上げること。

【要件緩和の主な注意点】

①令和3年度の最低賃金の発効日(10月)以降に賃金を引き上げる場合は、今年度の引き上げられた最低賃金から30円以上引き上げる必要があります。

②同一都道府県内に地域別最低賃金との差が30円未満である事業場が複数ある企業は、最も低い事業場内最低賃金を30円以上引き上げ、他の事業場もこの水準以上に引き上げる必要があります。

③就業規則、賃金規程などに、賃金引上げ後の賃金額を全従業員の下限とすることを定める必要があります。

④賃金を引き上げた日以降の休業について要件緩和を利用できます。


2.業務改善助成金

一定条件に合致する中小企業が、事業場内の最低賃金を20円以上引き上げ、さらに生産性を向上させるために機械設備の導入、専門家からのコンサルティングを受けるなどの取組みをすると、その費用の一部が助成されるものです。

【対象となる企業等】(以下の①②いずれの要件に合致していることが必要です。)

①事業場内最低賃金(1雇用調整助成金の要件緩和の②の定義と同じです)と当該地域の最低賃金の差額が30円以内であること。

②従業員が100人未満であること。

【助成額】

引き上げ額と引き上げる従業員数によって助成上限額が決まります。

①賃金要件:事業場内最低賃金900円未満の事業場

②生産量要件:売上高や生産量などの事業活動を示す指標の直近3ヶ月間の月平均値が前々又は前々年の同じ月に比べて、30%以上減少している企業また、助成率は右表のとおりで、支払った費用に助成率を乗じた金額または、上記の上限額のいずれか低い額が適用されます。

(※生産性要件:企業の決算書類から算出した労働者1人当たりの付加価値が、原則として6%以上向上している場合をいいます。)


【注意点】

①業務改善計画(設備投資などの実施計画)と賃金引上計画(事業場内最低賃金の引上計画)を記載した交付申請書都を都道府県労働局に提出しますが、賃金の引き上げは、交付申請後以降に行う必要があります。

②また、交付申請に対する交付決定前に購入、実施した費用は、助成金の対象になりません。 ③交付申請の期限は、令和4年1月31日となっており、業務改善事業の完了の期限は令和4年3月31日です。


これらの助成金については、さらに細かな点でご注意いただかなければならない点があります。申請をお考えの場合、またはご興味がある場合は、担当コンサルタントにお問合せください。



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